Gone too soon

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叔母が危篤との知らせを受けたのは、成田空港で手荷物受取を待っているときでした。家族はすぐに葉山から浦安の病院に向かうとのこと。僕も成田から病院へ直行することにしました。病室に入り、「帰ってきたよ」と言うと一瞬目を開けてニコッと笑ってくれた叔母。結局それが彼女との最後の意志疎通になってしまいました。

叔母は今年の初めに軟骨肉腫との診断を受け、長期の入院生活を強いられていました。悪い部分を全部手術で取り去り、一度は念願の退院を果たしたのですが、すぐに容体が悪化して再入院。それからはずっと検査と放射線治療とのループで、夏にはもっとも恐れていた肺への転移が判明してしまいます。いまの医学では骨肉腫が肺に転移すると、ほとんどできることが残されていないのが悲しい現実でした。

度重なる放射線治療と、それでも全身に広がる悪性腫瘍で、あんなに元気だった叔母の体はどんどん痩せこけていきました。最後は本当に呼吸するのも苦しそうで、見ていてとても辛かった。ずっと傍らで懸命に看病し続けた叔父が、「もう頑張らなくてもいいよ」と言った時、堪えていた涙がどっと溢れました。

子供に恵まれなかった叔母は、小さい頃から甥である僕のことを我が子のように可愛がってくれました。叔父の仕事の関係で、沖縄から北海道まで転勤で飛び回り、各地の生活をとても楽しんでいた叔母。貧乏学生だった僕らは、小樽まで学割で5,500円のフェリーで渡り、叔母の家に厄介になりながらスキーに興じたものでした。僕が連れ込んだヨット部の連中たちさえも、我が子のように温かく迎え入れてくれたのを昨日のことのように覚えています。

僕のオリンピック挑戦も、起業して、家族が増えていく過程も、いつも我が事のように一緒に悲しんだり喜んだりしてくれた叔母。最後に残してくれた言葉は、「ヒロキは本当にいい奥さんをもらって良かったね」でした。その時は深く考えなかったけど、子供のいない叔母にとって、3人の子宝に恵まれた我が家は、文字通り宝にあふれているように見えたのかな。

こんなに早く逝ってしまうなら、もっともっとたくさん話をすれば良かった。それが悔やんでも悔やみきれません。でも最期を看取る事ができたのは幸いでした。ハワイから帰ってくるまで待っててくれるなんて、そんなところまで優しい叔母でした。

いつかはこんな日が自分にも来る。夫婦どちらかがどちらかを看取る日が来るんだ。その日を想像すると、いまこの日々を一日でも疎かにできないと身につまされます。やりたいことはやっておきたい。行きたいところは行っておきたい。言いたいことは言っておきたい。やってしまった悔いは残しても、やらなかった未練だけは残したくない。

大好きだった叔母が、別れの日に本当に大事なことが何なのかを教えてくれました。ありがとう。いずれ僕もそっちに行きます。その日まで、しばしのお別れです。

コメント

コメント(4) “Gone too soon”

  1. 多田

    あの時のスキー旅行は今でも覚えてます。あの時も確か直前に連絡して、いつ帰るとも言わずに三人で押しかけたのにまるで自分の子が帰省したかのように暖かく迎えてくれたよね。今でも本当に良い思い出です。ご冥福お祈り致します。

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  2. 黒田 武士

    本日になって知りました・・・。

    叔母さんは、君の帰りを待ってくれてたんだね・・・。

    ご冥福をお祈り申し上げます。

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