僕が初めてモスに乗ったのは2008年の夏でした。ザイクを買ってくれたシンガポール人のお客さんが、ブレードライダーの新艇を手に入れたことを耳にし、シャンパンを持って森戸海岸にお祝いに行ったあの日。ひょっとしたら乗せてくれるかも知れないとほのかに期待しながら。
そして期待通りに乗せてもらい、飛んじゃったのです。あの日から僕の人生は大きく変わりました。
寝ても覚めても、あの飛び上がる感覚が忘れられません。嫁さんに頼み込み、2週間後にはブレードライダーの中古艇を手に入れていました。
進水して間もなく浜名湖で全日本が開かれ、まだ3回しか乗っていないのに無謀にも参戦。でもこれが意外に健闘して準優勝しちゃいました。ただでさえ楽しいのに成績も良かったから、もう過呼吸になりそうなくらい興奮したのを覚えています。
それからしばらく、とにかく生活のすべてがモスのためといっても過言ではない日々を過ごしました。練習するか、整備するか、修理するか。とにかく毎日夢中でした。
しかし、そんな絶頂の僕を悲劇が襲います。あれは忘れもしない2008年12月26日。家族で福岡へ帰省する途中、カートップしたモスを東名高速で落としたのです。凄まじく北風の強い日で、固定のベルトが切れたのが原因でした。
あんなに苦労して整備して、年末年始は福岡で練習しまくろうと楽しみにしていたのに。時速100キロのハイエースの屋根から路肩に落ちた愛艇は見るも無惨な状態。一生忘れられない辛い体験でした。楽しいはずの年末年始はずっと修理だったなぁ・・・
多少の修理はヨット屋だから自分でやりますが、高速から落としたら当時の僕では手に負えません。福岡時代に大変お世話になった業者さん、プレ宮崎に修理を依頼しました。真冬だとエポキシの硬化に時間がかかるから、1-2ヶ月は覚悟しろとのこと。そんなに長いあいだ乗れないのか。あぁ自分が悪いとはいえ、辛い、辛すぎる・・・
大変前置きが長くなりましたが、実はこの辛い経験が後に実を結ぶのです。乗れない間も練習したくてたまらない僕は、オーストラリアンナショナルに遠征計画を立てました。ザイクとの打ち合わせでシドニーに用事があるから、そのついでだと。そう嫁さんを説得してw
モスを買ってまだ数ヶ月しか経ってないくせに、いきなり海外遠征。それもオージーナショナルといえば、ほぼワールドと変わらないレベルの高さで知られています。でもモスに乗りたくて乗りたくてたまらない僕にとって、これほど魅力的な機会はそうありません。幸いにも当時のモスの第一人者だった世界チャンプのローハン・ヴィールに連絡してブレードライダーのチャーター艇を確保できました。
時はまさにブレードライダー全盛で、出場艇の大多数を占めていたのですが、そんな中で1艇だけ異彩を放っていたのがMach 2でした。なにせレース前日に初めて進水した、湯気が出るくらいホヤホヤのできたて。ろくにセッティングなどできてなかったはずです。
なのに、いきなり第1レースからダントツのトップですよ。何レースやっても圧倒的に速い。なんだあのフネ?それにひきかえ僕はもう、腕は悪いわ、風は強いわ、チャーター艇はボロいわでもうケチョンケチョンのビリッケツでした。40-50艇エントリーあったと思いますけど、ホントのビリ。飛ばないスコーよりも後ろでした。
成績は散々だったけど、ただ毎日が刺激的で楽しい!だってビリなんだから、誰に何を聞いても勉強になるし、誰も僕に隠し事をする必要もありませんから。結局この遠征の一番の収穫は情報でした。世界の最新の動向を生で見ることはとても重要なのです。
レガッタ中盤でセンターボードを折ってしまい、最後はもうレースを辞めて観戦することにしました。そのとき運良くMach 2陣営のボートに乗れることに。しかもレース後にはMach 2の試乗もさせてもらいました。「こりゃスゴイ。これからはMach 2の時代に違いない!」と確信した僕は、その場でAmacにディーラー契約を打診し、現在にいたるのです。
今日またまたMach 2が到着しました。ディーラー契約をする頃は、まさか日本でこんなに売れるとは思っていませんでした。国内25艇目と26艇目、通算では371艇目と379艇目のMach 2だそうで、国内だけでなく世界中で需要は高まるばかり。まだまだ覇権は続きそうです。
あのとき高速でブレードライダーを落としていなかったら、オージーナショナルには行ってなかったし、Mach 2のディーラーにもなっていなかったでしょう。禍福はあざなえる縄のごとし。人間万事塞翁が馬。何が起こるか分からないから人生は面白い。
思い出しますね、森戸で初めてのフォイリング!
Aクラスカタマランもとうとうフォイルになりましたね。フォイルカタマランをひとつ入れますか?
フライングファントム、割と本気で欲しいです。折半しません?スターボ側はマリタイム、ポート側は弊社で。