新年会の壇上で、前JSAF会長であり、ニッポンチャレンジのチェアマンであった山崎達光氏が、武村洋一氏と共著の「海が燃えた日」を上梓したと案内がありました。石橋と470のキャンペーンをしていた頃に物心両面で大変お世話になったお二人の共著とあれば、手に入れない訳にはいきません。その場で購入し、さっそく読み始めました、というか一気に読み終わりました。
熱い。バリバリ熱い。
基本的には、お二人がいかにして至高の銀杯に挑んだかの回顧録が中心です。しかしそれよりも本当に伝えたいことは、もう一度やろう、これほど価値のある挑戦はない、まだ諦めちゃいけないんだ、そういう熱いメッセージだと感じます。ビンビン感じます。
もっと有り体に言えば、この本をこのタイミングで出した目的は、AC45のユースアメリカスカップへの参戦を実現するため、後進の若者を鼓舞するためなんでしょう。確かにユースアメリカスカップからでも参加しなきゃ、夢を持たなきゃ、永遠にその夢は実現しません。
個人的に最も印象に残ったのは、”「挑戦し続けなければ失うものがある」ということは、挑戦したものにしかわからないんだよ。”というフレーズでした。お二人とお話する度に、アメリカスカップを見るものとしている人間と、戦うものとしている人間の差を痛烈に感じます。AC45のサーキットを見て、僕なんか「カッチョエー」と単に憧れていますが、お二人はきっと、その場にいられないことを忸怩たる思いで過ごされているんだと思います。
ページをめくっているといまから20年前、1992年の夏が自分の中にまざまざと蘇ってきました。高校からヨットを始めた僕は、博多の海で3年間、潮まみれになって過ごしました。大学でも絶対にヨットを続けたいと願い、早稲田を受験したのですが、まさかの不合格。失意のまま浪人生活に入り、これという目標を見つけられない日々を過ごしていました。
もちろん、もう1年しっかり勉強して早稲田に入る、というのも目標だったのですが、18歳の少年から高校生という肩書きを取りあげ、1年間自由な時間を与えてしまうと、いろいろと良からぬことを考えるものです。なぜに大学受験に失敗したのか、これには何か意味があるんじゃないか?他に何かすることがあるんじゃないか?などと。(単なる努力不足に過ぎないのに!)
そんなある日、新聞のスポーツ欄の片隅に、ニッポンチャレンジのクルー募集という記事を見つけたのです。その年の春、ニッチャレは初挑戦ながら挑戦艇シリーズの準決勝まで進み、連日テレビや新聞を賑わせていました。敗退後、早々に次回挑戦を表明し、95年の大会へ向けてクルーを公募したのです。しかも180センチ75キロ以上という前回の応募制限を撤廃し、より幅広い人材を募るとのこと。
これだ!
震えました。これなんだと。オレが浪人したのはこれに応募するためだったんだと納得し、ひと足先に大学生になった同級生たちを哀れにすら思いました。これに応募できないなんて、こんなチャンスを活かせないなんてと。
書類選考に思いの丈を綴り、毎日トレーニングに勤しみました。こんなチャンスに出会えたことがうれしくてうれしくて。書類選考の合格通知が来た時にはもう、世界を股にかけるプロセーラーになった気分でした。たかが3年間スナイプに乗っただけで、キールボートなんか一度も乗ったことなかったくせに。でもあの夏、僕は本気で夢を見て努力しました。
そしてついに最終選考。新幹線で蒲郡に行き、体力測定やバスケットボールの実技、面接などを受けました。その日ベースキャンプで見た現役のクルーたちは本当に輝いてました。真っ黒に日焼けした、鍛え上げた身体と、揃いのNipponのユニフォーム。自分がこの一員になれるなんて夢のようでした。面接ではテレビや雑誌で見ていただけの人たちに質問され、舞い上がっちゃって何を話したか全然覚えてません。
結果あえなく落選。僕は最終選考に進んだうち最年少の18歳でしたが、もう一人いた18歳の三瓶さんは合格していました。ショックだったなー、勉強でもヨットでもオレはダメ人間なのかと落ち込みました。
その後、同志社に推薦で合格し、晴れて大学生という肩書きを持って、好きなヨットに勤しむことができたのですが、周りの学生セーラーとは違う回り道をしてきたからこそ、自分は絶対に負けないんだという意識を持って過ごしました。95年のアメリカスカップ、2度目のニッポンチャレンジを雑誌で見ながら、あっちにいたかも知れなかった自分は、学生ヨットの枠を超えて活躍すれば、向こうから声がかかる日が来ると、そう本気で信じていたのです。
卒業後、470でオリンピックを目指し、sailfastへとつながっていき、いつかニッポンチャレンジにという夢は達成できないままとなってしまいました。でも、初めて本気で夢を追ったあの夏の数ヶ月は、いまでも自分の原動力です。sailfastのキャンペーンも、SAILFASTでの事業も、やってることに多少の違いこそあれ、思いはあの18歳の夏のままです。
もう一つ、読後に印象に残ったフレーズがあります。”アメリカスカップに挑戦することで社会に何を還元できるか”お金集めに苦労したお二方だからこそ、これがいかに大事かを伝えたいのだと思います。僕もオリンピックキャンペーンを通じて、社会に何かを還元しないと、自分たちのキャンペーンは成立しないんだということを学びました。ヨットが好きなんです、金メダルを獲りたいんですだけではお金は集まりません。その挑戦を通じて社会に価値を提供しなければ。
僕らはTシャツを販売し、挑戦の記録を公開し、オリンピックキャンペーンを疑似体験してもらうことに挑みました。特定の企業に所属しないでオリンピックを目指そうと思ったら、社会の中で活動が有益だと認められないと存続できないからです。当たり前のことですが、でもそんなことをしてるセーラーは当時はいませんでした。
いま社会不安と経済不況にあえぐ日本において、世界の頂点に挑むことの価値は認められないのでしょうか?大震災と津波を経験し、生活基盤の整備がなによりも優先されるようなときに、夢を見るのは不謹慎ですか?じゃあ戦後の焼け野原から奇跡の経済成長をなしえたのは何が原動力だったのでしょうか?
いまこそデッカイ夢を描くべきです。ドデカイ夢を。
僕は今年、まずはモスで32ノットを目指します。世界記録を更新して、日本人でも高速セーリングができるんだと世に知らしめたい。AC45よりも速く走りたい。お二人の偉大な先輩の熱に絆されて、まずは自分にできる挑戦への決意をここに表明します。
『海が燃えた日』もう読了されたとは。
熱い本ではありますが、後藤さんの書評がもっとも熱い!
私たちも大きな夢をみなければと痛感いたしました
コメントありがとうございます。ホント久しぶりに熱い思いがたぎりました。あの本はセーラー以外に読んでもらうことを全く意識していない思い切りが素晴らしい。明らかに若いセーラーに向けて語りかけていますよね。お前たちこのままでいいのか?と。そこまで言われて熱くならない方がおかしい。
始めまして、中村と申します。
「海が燃えた日」の記事を拝見しましたが、こちらの本に対する熱い気持ちもとても伝わりました。
是非、読んでみたいと思います。
今後とも宜しくお願いします。
後藤さん、亀レスで失礼します。
今日5/27のFBコメントも、この熱い想いが有ったからなんですね。
素人感覚ですが、AC45で世界と戦える日本人は、49er/モスで(他スキフ含)後藤さん達:ワールド/五輪代表しかいないと思います。
※更に、最近はAC45までウィング付いて飛び出したし・・
現在の学連トップセーラー達は、AC45ユースで戦えるんでしょうか?
(二重ポスト失礼、最初のは文章変なので消して下さい・・)
技術的に乗れるかどうかより、既成の枠を飛び出して戦おうという強い意志があるかどうかだと思います。AC45ユースに出たい!っていう熱い子が何人かいるようですよ。本気で挑戦する選手がいれば、僕は本気で応援します。
そうですね、まずは「若く熱い思い」が大事ですね。
’09唐津Radialworld前後のユースの成長には驚きました、
一緒に走って実感してます、若者の成長は凄まじいです。
モスのWorldrecord是非やって下さい、祈念しております。
厄年のLaserセーラー@病床より。
あー早く回復してLaser乗りたい、次はMach飛びたい。
ありがとうございます。ぶっ飛んでやります。
早く海に出られるといいですね。